なぜ、あらゆる信念は正しいのか〜波世界への小旅行と死の受容〜

あらゆる信念は正しい。もしくは、誤りである信念は存在しない。この文書では、私のこの考えについて、どのようにしてそれを得るか、また、それが何をもたらすのかについて書く。

「信念」とは何か

まず、ここでいう「信念」がどのようなものを指すかについて話す必要がある。それは、一般的にいう信念と呼ばれるもののうち、道徳や死生観など、価値観や宗教的な考えについてのものである1。例えば私の信念を例に出すと、以下のようなものがあげられる。もちろん全て正しい。

  • 私という自我の発生とともに世界が創造され、その死とともに世界は終焉を迎える。
  • 自己愛の追求と自他の混同により幸せが得られる。
  • 全ての人間の全ての欲望を肯定し、その実現を権利として認めるべきだ。

「全ての信念は正しい」という信念

全ての信念が正しいというのはどういうことだろうか?

この世には様々な信念が溢れている。死を恐れる者もいれば、死を救済と同一視する者もいる。しかし、それは一部分だ。多くの人は身を完全に凭せることができるような強固な信念を持っていない。

ここで問題になるのは、信念が揺らいだ状態は苦しさを伴うということだ。あまりにも複雑で無秩序なこの世界の中で、我々はどれも正解には見えないような様々な選択をし、それが原因で発生したように見える様々な障害を乗り越えていかなければならない。そして、よく分からない死というものについて一生悩まなくてはならない。

もし、信念というものを持っていれば我々はもっと楽に人生を全うすることができる。さらに、全ての信念が正しいという前提があればどの信念に基づいて行動するかすら迷う必要がなくなる。つまり、もう死について悩む必要はない。

波世界への冒険

それでは早速 旅に出よう。初めのうちは、その場所はあまりにも遠く感じられるかもしれない。しかし、実際は、暗闇が常に隣にいる(カーテンを閉めて灯を消せば、もしくは目を手で覆えば、いつでも会うことができる)ように、様々な場面で好きなときに訪れることができるものである。

自我の大きさ軸

普通は自我のサイズは安定している。我々は意識することやLSDなどの幻覚剤を用いることで自我の領域の大きさを変化させてゼロにしたり、無限大にしたりすることができる。私はそのなかで自我をゼロにした状態に気づいて、神(世界に「神」と呼べる領域は存在しないが、確かに存在しているもの)の視点で世界を見つめたり想像したりすることを「波世界への旅」と呼んでいる。なぜ「波」という単語を使うのかは以下で説明する。

世界は波のようなものである

旅に成功したとき、世界は勝手に動いていて、あなたという存在はゼロになる。

想像してみよう。今の世界からあなたの自我だけを取り除いた時に何が起こるだろうか?もしあなたが哲学的ゾンビになったときに世界は動き続けるのではなかろうか?そもそも、あなたの自我は本当に存在しているのだろうか?

世界は波みたいなものだ。海の表面が揺らめき続けているように この世界は揺らめいている。様々な波があって、この世界はその集合体だ。その中には周期的な波もあるかもしれない。しかし、ほとんどは円周率や自然対数の十進記数法表現のように、規則性がなく無限に続く波だ。揺らめきのうち、規則性があるように見える部分の1つを我々は自我と勘違いし、世界に存在したつもりになっている。

この感覚を得るのが難しいという場合は世界を観測するときのスケールを変えてみよう。初めのうちは、自分の存在を全体の中で小さいものと感じることが重要になってくる。

人間は自分が使っているスケールが絶対的なものだと考えがちだが、実際はもっといろいろなスケールで世界を観測することができる。

人間という生物はミトコンドリアや腸内細菌など、他の小さな生物たちと共生することによって生きている。ここでスケールを大きくする。そうすると、地球という生命体が植物や人間といった微生物と共生しながら生きているように見える。時間スケールも変えてみよう。地球は、表面で分子が高速で集まったり拡散したりしながら大地が生まれたり沈んだり移動したりしているようにしか見えなくなってくる。このスケールでは「あなた」という個人は小さすぎて見えなくなる。

そしてスケールを元に戻す。今のあなたなら元のスケールに帰ってきても自分の存在が小さく見えているだろうし、運が良ければそのサイズが0であることにも気づくかもしれない。

世界が実際どうであるかとは独立している

この世界は波であるという世界観は、実際に世界がどのようであるかとは独立している。

  • もし、この世界は神が創造し、神の思うままに動いているとしたら、神の意志こそが「波」である。
  • もし、この世界が紙芝居で、我々はその登場人物だとすると、その紙芝居が「波」である。
  • もし、この世界がコンピューター上のシミュレーションだとすると、この数値計算の結果が「波」を作る。
  • もし、この世界が粒子の運動だけで説明できるとしたとき、全ての粒子の位置や運動はそれぞれが「波」だ。
  • わたしは超弦理論がよく分からない。全く分かっていないが、「ひも」の振動イコール「波」だ、としか言いようがない。

とにかく私が言いたいのは、世界は、それがどのような仕組みで動いているとしても、私やあなたのような自我の存在なしに勝手に動くものであるということである。

あなたはすでに死んでいる

突然だが、波の世界において、あなたはすでに死んでいる。

そもそも生きているとはどういうことか?それは世界にあなたと呼べる領域が少しでも存在することである。肉体や自我が存在し、それを周りやあなた自身が1つの生きた「もの」として認識することができる状態である。そして死ぬときは腐敗や燃焼などによって周りの分子との区別がつかなくなり、「あなた」と呼べるものが存在しなくなる。つまり波世界にいくことは「自殺すること」と等しい。

波世界からの帰還

無事に家に帰り着くところまでが旅行だ。我々は死(波世界)から生(元の世界)に戻ってくることができる。つまり自我のサイズを元に戻す。

多くの人にとってこれは簡単な作業のはずだ。この2つの世界を緊張と弛緩に例える時、波世界に旅することは緊張で、戻ってくることは弛緩のような感じがするだろう。しかし、慣れればこれを逆転することができる。そして、その逆転した状態こそが、この旅の本来の姿である。

ゴム風船は圧縮された空気が外に出ようとする力と伸びたゴムの空気を圧える力が釣り合い、緊張状態にある。割れるとその緊張が解ける。生命の維持や終わりもそれに似ていて、生物の死とは、分子が自由に動こうとする力と一定数の分子をまとまった領域に規則的に集めておく力の均衡が崩れることである。つまり、生きることは緊張で、死ぬことは弛緩だ。

否認・抑うつ・受容

波世界からの帰還後の反応は人それぞれである。ただ、私はそれを大雑把に否認・抑うつ・受容2に分類できると思う。それは喜怒哀楽の分類のようなもので、それぞれがそれぞれに対して排他的ではなく、例えば、後述するように否認と受容が半々になることもある。

「否認」は波世界というものを見なかったことにする、もしくは、ありえない存在として退ける反応を指す。この状態にあると「波世界」というものが悪魔の囁きのように聞こえ、あなたはそれを聞かなかったことにする。私が12-20歳3の時に持っていた反応はこれだった。

「抑うつ」は波世界の存在を認め、あらゆる意味を全て諦める反応を指す。この状態では生きる目的などを喪失し、もしかすると自死を試みるかもしれない。私は、たまにこの状態に陥ることがあるが、そのたびに何度も立ち直ってきた(自殺しなかった)。

「受容」は波世界の存在を認めた上で、これまでの世界(波世界に出発する以前にいた世界)で人生を続けていく意志があるような反応を指す。これは仏教における「諦観」の状態に似ている。私は18-20歳のとき否認と受容の反応が混じっており、ほとんどの時期をおおよそ五分五分の状態で過ごした。そして21歳になった現在では否認の反応はなくなり、ほとんど受容とたまに現れる抑うつの反応のみになった。

全ての信念は正しい

もし波の世界を受容できたとき、我々は全ての信念が正しいことを確信できる。なぜなら、そのような世界について我々の信念を正しくないとすることはできないからである。正しくないとすることが誤りであるものを正しいと呼ばずして、他に何を正しいと呼べばいいのだろうか?

ここでいう「ある信念が正しくない」とはどのような状態を指すか?

まず、信念それ自体を正しくないとすることはしない。もし信念を示す文が矛盾していたとしても、それを正しくないと言うことはない。それは確かに論理を示した文としては間違っている。しかし、信念は、それを信じる主体とともになって初めて意味を持つものであり、信念文のみについて正誤を判別することはできない。

それでは、主体がそれを持ち、実践したときに矛盾が生じるような信念(例えば「わたしは信念を持たない」と言う信念)は正しくないと言えるのではないか。しかし、そのような矛盾を生むような主体と信念の組は、当然、存在できない。「わたしは信念を持たない」と言う信念を持っている人間は存在してもおかしくないと思えるかもしれない。しかし、実際にその人が持っているのは「この信念以外にわたしは信念を持たない」と言う信念である。

それではどのような信念を正しくないとすることができるのか。それは(主体, 信念文, 選択)と言う三つ組みのタプルである。例えば、ある裁判官が「判決は公正でなくても良い」という文について「わたしはこれを信念とする」と決めた場合、我々はそれを正しくないとするかもしれない。そのとき我々が正しくないとしているのは、(ある裁判官, 判決は公正でなくても良い, わたしはこれを信念とする)と言うタプルである。この3つのどれが欠けても我々はそれを正しくないとすることはできない。主体が欠けたときにその正しさについて考えることができないのは前述した通りであり、また、信念文が欠けたときに「信念が正しくない」ということができないのは当然である。そして、選択が存在しなかったとき(例えば前述の裁判官がロボットで、それが「判決は公正でなくても良い」という信念を持つようにプログラムされていたとき)その信念について正しくないと言うことはできない。なぜなら、そのとき信念は主体の定義の中に包含されていて、この時なにかを間違っていると言うとすれば、それは信念ではなく定義の方であるからだ。

つまり、わたしの言いたいことはこうだ。波世界において、我々は何も(「全ての信念は正しい」という信念を持つことさえも)選択していない。すなわち、信念を正しくないとするために必要な先ほどのタプルの第三要素である「選択」が足りていない。したがって我々の信念は全て正しい。

最後に

我々は映画の主人公や登場人物のようなものだ。それらは「平和が最も重要だ」「世界を征服したい」「死は救いである」などの様々な信念を持ち、それに基づいて行動する。それらは、どんな信念であったとしても正しい。なぜなら台本という波がそれらをそのような状態にしているだけで、彼らはなにも選択していないからだ。そして我々も波世界に登場するまとまったように見えるものの1つに過ぎない。私たちはもっと小説やマンガの登場人物のように生きてもいいのかもしれない。


  1. 他の信念と区別するために、それらを「価値観についての信念」などとするのが適切であるが、この文書内では単に「信念」と呼ぶことにする。 

  2. これらは、キューブラー=ロスの「死の受容のプロセス」からの単語だけの表層的な援用である。 

  3. 私の自分の年齢についての記憶はかなり曖昧であるため、以降の年齢についての記述は±2年くらいの誤差があることをご了承いただきたい。 

Written on March 18, 2019